純資産も本業の稼ぐ力もマイナスの会社は、株式代金1円で譲り受ける取引が現実に成立します。ただし、買い手の負担がゼロになるわけではありません。会社の借入、税務や労務のリスク、経営が落ち着くまでの人件費は、そのまま買い手の会社に乗ってきます。だからこそ、1円の取引ほど「守りの設計」に時間をかける必要があります。守りは「払う前に直させる」「支払から差し引く」「現実になったら補償させる」の三層で考えます。
本稿は、当事務所が関与した複数の案件の経験をもとに、特定の会社が分からないよう業種・数字・経緯を変えて書いています。
払う前に直させる
クロージング条件。決済までに売り手側で完了させる事項を条件にします。
支払から差し引く
相殺権。支払うお金から会社の債権を差し引きます。
現実になったら補償させる
特別補償。調査で分かったリスクが現実になったときに請求します。
1円という金額の意味
なぜ0円ではなく1円なのか。無償の譲渡ではなく、有償の売買契約として成立させるための名目上の対価だからです。買い手が現金を出さない代わりに、会社が抱える借入や保証、リスクを引き継ぐ。これが取引の実質です。
ここで一つ、見落とされやすい論点があります。
M&Aの契約では、売り手が買い手に補償する金額の上限を「株式代金の何割」と決めるのが慣行です。株式代金が1円なら、この慣行はそのまま使えません。上限は固定の金額で決める必要があり、その金額は「実際に回収できる原資があるか」から逆算することになります。
表明保証・特別補償・サンドバッキング条項の違い
契約書には似た言葉が並びますが、守れる範囲がまったく違います。
| 表明保証 | 特別補償 | サンドバッキング条項 | |
|---|---|---|---|
| 中身 | 会社の状態が契約書に書いたとおり真実だと、売り手が約束する | 調査で分かった特定のリスクが現実になったら補償すると、売り手が個別に約束する | 買い手が問題を知っていても表明保証に基づく請求ができると明記する |
| たとえ | 中古住宅の告知書 | 既往症を特約でカバーする保険 | ― |
| 守る範囲 | 買い手が知らなかったリスク | 調査で分かった特定のリスク(買い手が知っていたかは問わない) | 買い手が知っていた表明保証違反(開示別紙の事項は除く) |
| 上限・期間 | 上限・期間(1〜2年が多い)・少額の免責が付く | 表明保証とは別枠の上限、免責なし、税務なら更正できる期間に合わせる | 表明保証に付属する条項で、それ自体に上限や期間はない |
| 調査で見つけたリスク | 開示別紙に書かれると請求できない | 守れる | 開示別紙に載った事項は救えない |
表明保証は、売り手が「会社の状態は契約書に書いたとおり真実です」と約束するものです。中古住宅の告知書に近い性格で、買い手が知らなかったリスクを守るための網です。請求するには、違反・損害・因果関係を買い手が立証する必要があり、上限や期間(1〜2年が多い)、少額の免責が付きます。そして重要なのは、買い手が調査で知っていた事項や、売り手が「開示別紙」に書いた事項は、原則として請求できないことです。
特別補償は、調査で分かった特定のリスク(例えば、過去の税務処理に起因する追徴の可能性)が将来現実になったときに、売り手が補償すると個別に約束するものです。既往症を特約でカバーする保険に近く、買い手が知っていたかどうかは問われません。上限は表明保証とは別枠、免責なし、期間は税務なら更正できる期間に合わせる、という設計が基本です。
サンドバッキング条項は、「買い手が問題を知っていたとしても表明保証に基づく請求ができる」と明記する条項です。表明保証に付属する条項であり、それ自体に上限や期間はありません。逆の条項(知っていた事項は請求できない)を売り手から求められることも多く、受け入れると調査で見つけた事項の請求ができなくなります。
ただし、開示別紙に載せた事項はこの条項でも救えません。調査で見つけたリスクを守るのは、あくまで特別補償です。
補償は「回収できる原資」があって初めて意味を持つ
もう一つの落とし穴は、売り手が現金を受け取らない取引では、補償を約束されても差し引く相手がいないことです。株式代金1円の取引では、売り手が会長として残る場合の役員報酬や、退任時の退職金からの差引、個人保証や担保での補強を組み合わせて、はじめて補償が機能します。
役員報酬や退職金からの天引きには法律上の制約もあるため、この部分は弁護士の設計が欠かせません。
三層の順序
守りには順序があります。最も確実なのは「払う前に直させる」クロージング条件です。役員への貸付金の回収、社会保険や労務の届出の是正、個人と会社の資産の分離など、決済までに売り手側で完了させる事項を条件にします。次が、支払うお金から会社の債権を差し引く相殺権。最後が、現実になったときに請求する特別補償です。
後になるほど回収の手間と不確実性が増えます。
買い手の方へ、売り手の方へ
価格より「守りの設計」に時間を使う
価格交渉よりも「何を決済の前提条件にするか」「どの原資から差し引けるか」の設計に時間を使うことをお勧めします。1円の取引で失敗するのは、価格ではなく守りの設計が甘かった場合です。
1円を「出口」として考える
1円という数字を屈辱と受け取る前に、「借入と経営者保証から会社と自分を切り離す出口」として考えてみてほしいと思います。会社が存続し、従業員と取引先が守られ、保証の履行を迫られずに済むなら、それは決して悪い出口ではありません。
当事務所では、財務デューデリジェンスの結果を「価格」だけでなく「クロージング条件・相殺権・特別補償」の設計に落とし込むところまでお手伝いしています。法的な条項化は提携する弁護士と連携して進めます。
まとめ
株式代金1円は「タダ」ではありません。借入やリスクを引き継ぐ取引だからこそ、払う前に直させる・支払から差し引く・現実になったら補償させるの三層で守りを設計することが大切です。
まずは初回相談からお気軽にご相談ください。契約条項の設計は、提携する弁護士と連携して進めます。
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公認会計士・税理士/税理士法人袖野会計 沖縄オフィス 代表社員
慶應義塾大学商学部在学中に公認会計士試験合格。有限責任監査法人トーマツ、TOMAコンサルタンツグループ、デロイトトーマツファイナンシャルアドバイザリー合同会社を経て現職。東証プライム上場企業の財務デューデリジェンス、中小企業のM&A・事業承継支援に従事。
沖縄税理士会所属(登録番号 第138425号)
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