会社を売る側と買う側の間には、決算書という共通の言葉があります。ところが買収前の調査で仕訳を1行ずつ並べ直すと、その言葉が実態とは違う意味を持っていることがあります。帳簿の上では毎期わずかに黒字で、純資産もプラス。それでも、調査を終えたときの結論が「株式の価値はゼロ以下」になることは珍しくありません。実際に問題になった論点を6つに整理しました。会社を売ることを考え始めた方には「売る前に直しておくこと」として、買う側の方には「何を見て、どう守るか」として読んでいただけるように書いています。
本稿は、当事務所が財務税務デューデリジェンス(買収前の財務・税務の調査)に関与した複数の案件の経験をもとに、特定の会社が分からないよう業種・数字・経緯を変えて書いています。
論点1|利益は「会計修正」と「正常化」の二段階で直す
買収価格の基礎になるのは、本業の稼ぐ力(EBITDA=営業利益+減価償却費)です。帳簿の数字をそのまま使うことはまずありません。二段階で直します。
会計修正
会計のルールに沿っていない処理を正します。典型は、引渡し前の案件を期末に売上へ計上する「売上の前倒し」と、引渡し済みの案件の原価を仕掛品に残して翌期の費用に回す「原価の先送り」です。
正常化
ルールには沿っていても、買収後には続かない収支を除きます。勤務実態のない親族への給与、役員の私的な支出、退任する役員の報酬、会社に残らない代表者個人の講演料などです。逆に、移行期間の会長報酬のように買収後に新しく生じる費用は差し引きます。
売上の前倒しには、見落とされやすい性質があります。前期末に前倒しした分は当期に実際の引渡しを迎え、当期末にはまた次の案件が前倒しされる。期をまたいで打ち消し合うため、複数年の売上の合計は変わりません。変わるのは、どの年がどれだけ稼いだかです。
「粗利率が安定しすぎている」こと自体が、調査の入口になります。
売上の前倒しと原価の先送りが組み合わさると、粗利率が毎期そろって見えます。実際には年によって大きく動いているのに、決算書の上では安定した会社に見える。そして直近の期末に前倒しが膨らんでいると、直近期の利益がもっとも大きく見えます。買い手がもっとも重視する「直近の実力」が、もっとも歪んでいるということです。
論点2|純資産は「実態」に直すと、帳簿と符号が逆になることがある
利益と同じく、純資産も実態に直します。代表的な調整は次のとおりです。
| 調整項目 | 純資産への影響 | 内容 |
|---|---|---|
| 前倒し計上の取消 | 減少 | 引渡し前で請求権のない未収金を消し、売上に振り替えていた前受金を負債に戻す |
| 資産性のない資産の控除 | 減少 | 会社の資産として計上されているが、実態は代表者個人のための支出だったもの |
| 計上漏れの負債 | 減少 | 未払の税金、退職金規程に基づく従業員退職金の要支給額など |
| 保険の簿外含み益 | 増加 | 解約返戻金と帳簿価額の差額。解約時の税負担を考慮した後の金額で加える |
帳簿の純資産がプラスでも、これらを積み上げると実質債務超過になることがあります。
運転資本も同じです。前倒し計上の未収金、仕掛品に残った引渡し済みの原価、売上に振り替えられた前受金。この三つが合わさると、帳簿上の運転資本は増えているのに、実態は前受金と買掛金に頼って回っている、という逆の姿が出てきます。運転資本の水準を価格調整の基準に使う契約では、基準値を帳簿のまま置くと、それだけで価格がずれます。
論点3|代表者個人のための支出は「時価」の置き方で回収額が変わる
中小企業の調査で頻繁に出てくるのが、代表者個人のための支出を会社が負担しているケースです。たとえば、会社が代表者から仕事を請け負い、通常よりかなり安い対価しか受け取っていない、といった形です。
この差額は、税務上は役員への利益供与(役員賞与)として課税されるおそれがあり、源泉所得税や消費税にも波及します。買い手から見れば、会社が代表者から回収すべき債権です。問題は、その差額をいくらと見るかです。
| 時価の見方 | 金額の置き方 | 性格 |
|---|---|---|
| 下限 | 会社が実際に支払った原価 | 帳簿と一致し、売り手が事実として争えない水準 |
| 現実的な水準 | 原価に通常の粗利を乗せた価格(原価 ÷(1-通常の粗利率)) | 「他のお客様と同じ条件で請け負ったらいくらか」という見方 |
たとえば原価3,000万円の仕事で、通常の粗利率が20%であれば、現実的な水準の時価は3,750万円です。代表者の支払が2,000万円なら、会社が回収すべき額は1,000万円(下限)から1,750万円(現実的な水準)の幅になります。
※ 数字は説明のための例です。
回収の方法は、現金での返済が原則です。代表者の退職金と差し引きで精算する方法もありますが、それは買い手側の譲歩であって、交渉の出発点にすべきではありません。退職金で精算する場合は、その退職金が税務上も退職金として認められる条件を満たす必要があります(「会長になって退職金を受け取るときの3つの壁」)。
論点4|帳簿の外にある負債 ― 労務と、外注先の「給与」認定
決算書に載っていない将来の支払義務(偶発債務)のうち、中小企業の調査で多いのは労務です。
- 時間外労働の協定(36協定)を届け出ていない
- 退勤の時刻が客観的に記録されていない(手書きで定時が並んでいる)
- 従業員を即日解雇し、解雇予告手当を支払っていない
退勤の記録がないと、未払の割増賃金がいくらになるかを確定できません。確定できない負債は、買い手から見れば上限で考えざるを得ない負債です。
もう一つが、専属で働いている外注先が「給与」と認定されるリスクです。認定されると、源泉所得税と社会保険料に加えて、外注費として控除していた消費税(仕入税額控除)も否認される方向に働きます。
判断は契約書の名称ではなく実態で行われます。国税庁の通達は、区分が明らかでない場合に次の4点を総合勘案して判定するとしています(消費税法基本通達1-1-1)。
| 判定の要素 | 給与(雇用)に近い事実 | 外注(請負)に近い事実 |
|---|---|---|
| 他人が代わりにできるか | 本人でなければならない | 代わりの人を手配できる |
| 指揮監督を受けるか | 作業時間・作業方法を会社が指示する | 段取りは本人の裁量 |
| 完成前に滅失しても報酬を請求できるか | 請求できる(時間に対する対価) | 請求できない(成果に対する対価) |
| 材料・用具を提供されているか | 会社が提供する | 本人が負担する |
実務では、支払の一部だけが日当になっていて、その締め日と支払日を会社が決めている、といった混在型がよくあります。その場合、リスクは全額ではなく日当の部分に集中します。どこまでが給与に近いかを分けて評価し、価格または補償に反映させます。
論点5|資金繰りは月末残高ではなく「月中の谷」で見る
決算書の現預金は、期末日1日の残高にすぎません。調査では、通帳の入出金を日ごとに並べ、月初を起点に収支を累計して、月の中でいちばん深い谷を測ります。これが、その会社が事業を回すのに最低限必要な現預金の目安になります。
この見方をすると、月末には残高があるのに、月中は当座貸越で谷を埋めている、という運転が見えてきます。大口の入金があった月の残りで数か月を回している。借入の返済期日が特定の月に集中している。こうした構造は、月末残高の推移表には現れません。
買い手が注意すべきなのは、調査から決済までの期間です。
独占交渉の間に売り手の資金繰りが行き詰まれば、取引の前提そのものが変わります。資金繰りと金融機関との協議の状況は、調査報告を待たずに先に確認しておくべきです。
受注残の確認も同じ発想です。売り手の資金繰り表に載っている受注が、契約書や案件台帳で裏付けられているか。裏付けのない受注を事業計画の出発点に置くと、買収後の計画は最初から崩れます。
論点6|表明保証だけでは守れない ― 買い手を守る三層
調査で問題が見つかったとき、買い手の打ち手は価格を下げることだけではありません。契約の組み立てで守ります。
| 層 | 仕組み | イメージ |
|---|---|---|
| 1. クロージング条件 | 「これが完了しない限り決済しない」という前提条件。役員への貸付金の回収、労務の是正、金融機関の了解の取り付けなど | 引渡し前に修繕を終わらせる |
| 2. 相殺権 | 売り手へ支払う金銭(退職金・報酬など)から、会社が売り手に対して持つ債権を差し引く | 払う前に差し引く |
| 3. 特別補償 | 調査で見つかった特定のリスクが現実になった場合に、売り手が個別に補償する約束 | 既往症を特約でカバーする保険 |
ここで見落とされやすいのが、表明保証との関係です。表明保証は「会社の状態は契約書に書いたとおり真実です」という売り手の約束ですが、調査で見つかった事項は「買い手が知っていた事項」として、表明保証では請求できないと主張されるおそれがあります。調査で見つけたリスクほど、表明保証ではなく特別補償で手当てしておく必要がある、ということです。
税務のリスクに対する補償期間は、税務署が更正できる期間に合わせて設計します。経営者保証の扱いも、この段階で決めておくべき事項です(「経営者保証はM&Aで消えない」)。
※ 各条項の法的な有効性と文言は、弁護士の判断事項です。私たちは財務・税務の見地から、何を補償の対象にすべきか、金額と期間をどう置くかを整理します。
売り手の方へ|売る前に直しておくこと
ここまでの論点は、裏返せば、売り手が先に手を打てることばかりです。
| 調査で問題になること | 売る前にできること |
|---|---|
| 売上の計上時期が引渡しと合っていない | 引渡しの事実に合わせて計上する。過年度分の扱いは税理士と相談する |
| 代表者個人のための支出を会社が負担している | 会社と個人の資産・取引を分け、差額を精算しておく |
| 勤務実態のない親族への給与 | 勤務の実態に合わせて整理する |
| 36協定・労働時間の記録がない | 協定を届け出て、退勤時刻の客観的な記録を始める |
| 専属の外注先との関係があいまい | 請負の実態に合わせて契約と支払方法を整える |
| 許認可の責任者が代表者に集中している | 後任の候補と、資格・経験の要件を確認しておく |
決算書が実態どおりであることは、価格交渉の材料である前に、取引が成立するための前提条件です。実態とずれた決算書のまま売却の話を進めると、調査の段階で信頼が崩れ、価格の話にすら入れないことがあります(「顧問税理士の『決算調整』に税理士法上どう向き合うか」)。
- 出典:国税庁 消費税法基本通達1-1-1(個人事業者と給与所得者の区分)
- 出典:国税庁「大工、左官、とび職等の受ける報酬に係る所得税の取扱いについて」
まとめ
帳簿の数字は、調査の出発点であって結論ではありません。利益は二段階で直し、純資産は実態に直し、帳簿の外にある負債を拾い、資金繰りは月中の谷で見る。そのうえで、見つかったリスクを価格と契約にどう振り分けるかを決めます。
売り手にとっては、そのほとんどが「売る前に直せること」です。
当事務所は、中小企業庁のM&A支援機関登録制度に登録しています。
会社の売却や事業承継を考え始めた段階での決算書の点検から、買い手側の財務税務デューデリジェンス、取引条件の設計まで、ご相談を承ります。まずは初回相談からお気軽にご連絡ください。
アクセス情報・事務所案内
所在地:〒900-0015 沖縄県那覇市久茂地1丁目1-1 パレット久茂地9階
営業時間:平日 9:00〜18:00
電話番号:098-979-7221(北谷オフィスと共通)
所在地:〒904-0116 沖縄県中頭郡北谷町北谷二丁目14番地3・305号
営業時間:平日 9:00〜18:00
電話番号:098-979-7221(那覇オフィスと共通)
野田 洋平(のだ ようへい)
公認会計士・税理士/税理士法人袖野会計 沖縄オフィス 代表社員
慶應義塾大学商学部在学中に公認会計士試験合格。有限責任監査法人トーマツ、TOMAコンサルタンツグループ、デロイトトーマツファイナンシャルアドバイザリー合同会社を経て現職。東証プライム上場企業の財務デューデリジェンス、中小企業のM&A・事業承継支援に従事。
沖縄税理士会所属(登録番号 第138425号)


コメント